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お父さんは最近この標柱がきっかけで「菅江真澄」という人に興味を持ち始め、覚えたての知識を意気揚々とお母さんに話しはじめたのだが、全く興味のないお母さんに軽くあしらわれ、しょんぼりしていた。しかし、覚えたてというのは誰かに話したくてウズウズする時期でもある。そんな時に小さな救世主が現れたのだ!
【お父さんの話の続き・・・】
「菅江真澄」という人は、生まれ故郷である今の愛知県を30歳の時に出発して長野や山形、青森、北海道など色々な所を旅して最終的に秋田県で29年間も暮らしたんだ。その間秋田県をくまなく歩いているんだけど、中でも男鹿には記録に残る限りでは3回も訪れているんだ。菅江真澄という人はね、男鹿の伝統行事であるなまはげを絵に描いた最古の人なんだ。
その他にもたくさんの絵を残してくれたんだけど、この人のおもしろいところはね、すごく上から見た絵の描き方をするんだよ。その技法は鳥瞰図(ちょうかんず)といって、空を飛んでいる鳥の目線のように上空から見下ろしたようにみえる絵の描き方なんだ。だから現在の風景と重ね合わせぴったりの場所もあれば、どこからみたんだろう?と不思議に思う場所もあるからそれを探してみるのもおもしろいね。今度は一緒に探してみようか!!」
そんな難しいことを言われたってちんぷんかんぷんであろうに、あまりにも嬉しそうに話すお父さんに思わず頷いてしまった息子であった。
つづく・・・
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白井英二または秀雄(白井という名字は間違いないようですが名前が沢山あります) |
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知之、白超、超、英超 |
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菅江真澄(文化七年(1810)57歳の時、秋田来てからこの名前に変えています。) |
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秋田の人々には「常被り(じょうかぶり)の真澄」と呼ばれていました。 |
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宝暦4年(1754年) |
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三河の国(現在の愛知県東部。豊橋市または岡崎市といわれています) |
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父、秀真(ひでまさ)・母、千枝(ちえ)晩年になって日記の中でしるしているが他は不明 |
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頭巾(いつから、なんのためにかは不明)、自分のことは語らない |
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天明3年(1783)30歳で故郷を旅立つ。秋田に初めてきたのは天明4年(1784)31歳の時 |
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享和元年(1801)48歳から76歳か77歳まで28~29年間秋田に定住する。 |
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長野、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、福島、北海道など。 |
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一般市民(農民、漁師、職人、芸人、遊女、など様々)、医師、神官、僧侶、武士、藩主などなど |
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文政12年1829年7月19日(76歳か77歳)仙北市(角館か田沢湖) |
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秋田県秋田市寺内(S37年に秋田史跡第1号に指定) |
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鳥屋長秋(とやのながき) |
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日記、地誌、随筆、国学、宗教、本草学、民俗学、図絵など多岐に渡り全部で200冊以上 |
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H3年(1991)6月21日『菅江真澄遊覧記』自筆本が国の重要文化財に指定されています。 |
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| 真澄さんは、記録に残る限りでは、3回男鹿半島を訪れています。男鹿の風景や人々の暮らし、なまはげなどを記録し、その著作は『男鹿の秋風』『男鹿の春風』『男鹿の鈴風』『男鹿の島風』『男鹿の寒風』の5冊を総称して「男鹿五風」と呼ばれ親しまれています。 |
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| 1回目の男鹿訪問・・・天明5年(1785)7月下旬。「もれ火」という日記の中に男鹿に泊まった記録があります。 |
| ・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋田市で俳人を訪ねた後追分三叉路から男鹿に向かっています。当時の追分三叉路はコチラ |
| ・・・・・・・・・・・・・・・・・・追分三叉路が変わっていないのがオドロキです。 |
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| 2回目の男鹿訪問・・・文化元年(1804)8月~9月の約1ヵ月間(男鹿の秋風) |
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| 3回目の男鹿訪問・・・文化7年(1810)~文化8年(1811)の約1年間 |
| ・・・・・・・・・・・・・・・・・・(男鹿の春風・男鹿の鈴風・男鹿の島風、男鹿の寒風) |
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1745年2月11日・伊能忠敬(測量家)
1749年8月28日・ゲーテ
1754年・・・・・・・・ 菅江真澄
1754年8月23日・ルイ16世(フランス国王)
1755年11月2日・マリーアントワネット
1756年1月27日・モーツァルト
1758年4月28日・ジェームズ・モンロー(第5代アメリカ合衆国大統領) 1758年11月2日・良寛(僧侶、歌人、書家)
1759年1月25日・松平定信
1760年 ・葛飾北斎(浮世絵師)
1763年6月15日・小林一茶
★真澄さんはルイ16世と同級生です。ちなみに松尾芭蕉(俳人)は110歳年上の1694年生まれです。
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| 真澄さんは自分自身についてはほとんど語らなかったため謎の人物です。なのになぜ肖像画は残っているのか不思議でなりません。肖像画を許可するのならもっと自分のことも話してほしかったですね。 |
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| 【謎その1】 トレードマークの頭巾はいつから?なんのために? |
肖像画でもわかるように、真澄さんは常に頭巾をかぶっていました。誰も頭巾をとった姿はみたことないそうです。そのため秋田では「常被り(じょうかぶり)の真澄」と呼ばれていたそうです。本人の前で言っていたのか、こっそり言っていたのかはわかりません。この頭巾に関しては色々な憶測があります。刀傷を隠すためだとか、変装のためだとか、真澄さんが亡くなった時、若者が頭巾をとろうとして年配者にたしなめられた、なんて話も残っています。
結局のところ、本人が全くそのことについて語っていないため、本人にしか頭巾の秘密は分かりませんが、人に憶えてもらうためには最高のトレードマークだったことには間違いありません。初めて会う人に真澄さんのことを紹介するとき「頭巾かぶってる人」で通じますから。
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真澄さんのお墓は秋田県秋田市寺内(てらうち)という地区にあります。寺内にある古四王神社(こしおうじんじゃ)という神社の向かいの脇道を下り、小さな橋を越えたところにある階段を上ると、ひとつだけ違う方向をむいているのが真澄さんのお墓です。菅江真澄研究会では毎年7月17日の命日に墓前祭が行われています。
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